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2017.12.31 (Sun)

尾形俊太郎(三嶋仙顔)調査まとめ 

花柳剣士伝の二次創作をしようと思い、自分用として調査していたのですが、別ジャンルの方からも需要があるようなのでまとめました。当ブログは年齢制限などないので、読みたい方はご自由にどうぞ。
【注意!!】
以下に記載しているデータは私が有識者からの手紙や機関紙、一次・二次史料の再調査を元にまとめたものです。
専門家の調査結果ではないので、wikipediaなどに記載しないでください。(過激派の特攻を避けるため)
現代の個人情報に繋がるおそれのある記事(※)には、検索避けのためPASSを設けています。(PASSは一番下をご覧ください)
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EDIT  |  16:05 |  尾形(幕末恋華)  | CM(0) | Top↑

2017.10.21 (Sat)

繋がり始める敬神党の輪 

前回の記事で「年内の更新はしない予定」と書きましたが、見付けてしまったので書いておきます。
『松山守善自叙伝』に石橋熊彦について少々記述があり、なんと石橋が敬神党出身者であることが判明しました。
最近、「尾形・石橋旧友説」は薄いかなと感じ始めていましたが、明治初期から顔見知りだった可能性が出て来ました。少なくとも上野堅吾とは確実に知人ですね。

ただ、明治6年2月に松山が敬神党離脱を決意した際、石橋はこれに同調。
明治9年10月24日の敬神党の乱のおりには、既に離脱していたようで現場の近くにいたにも拘わらず、参戦しなかった模様です。
訪ねてきた松山を迎え入れ、火の勢いが収まるまで敬神党時代の話をしています。
以前の記事で書いたように、石橋は明治9年3月17日に椎持小学校(※後の岳間小学校)へ教師として赴任しておりますので、この10月24日に松山が尋ねた「石橋方」は、恐らく熊本にある石橋の実家、もしくは逗留先だと推測できます。
熊本に戻るにしては時期が不自然なので、恐らく敬神党の旧友か太田黒伴雄から事前に乱のことを事前に聞いていたのでしょう。
さて、松山ですが、若い頃に御穿鑿所(刑事裁判所)の定詰だった経験から、明治9年10月20日司法省より十五等出仕の辞令を受けます。
民権派の友人とは疎遠になっていくのですが、自叙伝を書いた当時(84歳)、「今生きているのは自分と石橋だけ」と語っていることから、石橋とは定期的に連絡を取っていたようです。

余談ですが、松山は愛妻家で、妻の蝶子との間に静子という娘がいるとのこと。
松山は面白い人で、この蝶子が物凄く美人だったせいか(というか、そうとしか考えられないのですが。自叙伝でも、蝶子についてハッキリと「美人」と明記しているし‥)、結婚後は危険な現場に一切立ち寄らなくなり、安全第一主義の生き方をしていきます。
明治10年のおりも、木村、宮崎、平川、有馬にこの点を揶揄されているのですが、逆ギレして部屋を出て行ってしまいます。最高かよ‥。
更に松山、明治4年頃には上田休の漢学塾にも通っています。なかなか面白い人ですね。
ちなみに松山を揶揄した民権派の旧友、木村弦雄は『血史 勤王党中敬神派の分立』という文書を書いています。
これも敬神党の乱当日の動きがかなり分かる史料なので、気になる方は読まれると良いかと。

木下順二も松山守善のキャラが好きらしい。
松山守善のことはウェブで検索すれば結構出てきますので、ここでの記載は省きますが、結構面白い人なので、ご興味のある方は調べてみてくださいね。
今回はこの辺で終わります。

木下順二

【参考資料】
・『現代日本記録全集 第3 ―士族の反乱―』
- 『松山守善自叙伝』
- 『血史 勤王党中敬神派の分立』
EDIT  |  22:07 |  尾形(幕末恋華)  | CM(0) | Top↑

2017.10.01 (Sun)

150年前の簡易家系図 

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2017.09.29 (Fri)

来民町の治水の歴史と暮らしについて 

先日安政年間に遠山弥二兵衛が湯の口の溜池を築造した件を記載しましたが、その前の天保年間にも治水工事が行われていたので、記載しておきます。

天保期、来民町の衛藤八郎が来民付近に土管を敷設し、暗渠排水工事を数町歩おこない、深沼田を二毛作地にしたとのこと。(『日本農業発達史』)
(来民町の衛藤というと、後の時代に戸長征伐の件で登場する衛藤真俊の先祖でしょうか‥)

菊池・鹿本両平野は城北の穀倉地帯であるだけでなく、その前進陣地として加藤家統治時代からずっと重要視されていたようで、特に来民町を中心とした地帯の産米は米質優良なため、御倉米となっていたそうです。
そのため、他の地域に先駆けて来民付近の治水工事に力を入れていたようですね。
(※その他の地域 … 菊池の砦村・清泉村は明治末まで、鹿本では田底村・千田村は昭和期まで湿田が殆どでしたが、これは後に富田甚平の活躍もあり乾田化されます)
『高木熊太日記』にもしばしば来民町での米の相場が記載されているので、稲作と縁の深い土地だったんでしょう。

また、御宇田では新町(来民)という消費地が近い事もあり、木綿・煙草・西瓜・甘薯などの換金作物の生産も盛んでした。(「中村手永稼穡調書」、『肥後藩の農業構造』より)
新町も栄えていたようですし、御宇田あたりの暮らしぶりもなんとなく見えてきましたね。

実は来民には伊東雲起(記)という漢方医がおり、彼が明治7年~明治22年までの県内の出来事を『伊東雲起雑録抄』という物に纏めているようなので、今後そちらも目を通して行こうかなと思っています。
伊東雲起さん‥、伊東大和守氏祐の子孫なのだろうか‥。
EDIT  |  22:12 |  尾形(幕末恋華)  | CM(0) | Top↑

2017.09.25 (Mon)

義によって助太刀いたす! 

いきなり浦出さんにツイッターでフォローされて、「私、何かやらかしたかしら?」と震えていたら、大量の参考文献と山中トミエさんのその後情報をご教授下さり、今私は神の啓示を聞いてしまった巫女の気分ですよ。ありがとうございます。
この流れでスタイリッシュな尾形俊太郎の短編小説も送られて来ないかなと期待しています。お願いします。
(山中トミエさん情報については、岳間村のみんなについて(1)の方に追記しておきました)

先日、山鹿市関係補遺資料集を確認するため、『山鹿市史』を新たに取り寄せ申請したばかりなのですが、浦出さんから助言を頂いた『松山守善自叙伝』(石橋熊彦情報が掲載されている?)と、『父の事』の参考文献として掲載されていた『高木熊太日記』も、本日追加で申請しておきました。

その他、浦出さんから助言を頂いた史料をとりあえずメモしておきます。追々見て行く予定です。

①黒田家文書(熊本県立図書館):
黒田長士(中村手永椎持村庄屋)の名前が載っているそうです。その他、黒田長右衛門の名前があり、浦出さん曰く先祖ではないかとの事です。黒田家文書は気になっていたのですが、熊本は黒田さんが結構沢山いるようで違う可能性が高いと思い、後回しにおりました。これは要チェックですわ。

②『諸作日記帳』(安政1~慶応3, 1854~1867) 黒田龍左衛門(中村手永惟持村庄屋)著
すみません‥。情報弱者なので、この文書が現在どこで全文読めるのか分らず‥。「熊本市,黒田志之助氏蔵」なのでしょうか?普通に出版されていたら確認したいのですが‥。どなたか読んだことのある方、情報をお願いします。

黒田長士を追うことで、当時の中村手永(三嶋家が管理を任されていた上野家の知行地・上御宇田もここに含まれる)の様子、石橋熊彦が岳間村に来た経緯、山中元恭の山中家は代々椎持に関係のある家だったのか、当時の庄屋の暮らしの様子(俊太郎母の実家は郡医師→庄屋)など、色々掴めそうでワクワクします。

今のところはそんな感じです。
スイーツな私の、「なんか二次創作したい‥尾形生存ルートの‥」というフワッとした願望から始まった本件ですが、何故か心優しい方々に御助力頂き、壮大なプロジェクトになりつつあって感動しています。
ガラスのハートなので、いつ過激派の人に見つかって石を投げられるか心配ではあるのですが、皆さんが尾形のことを気にかけてくれた事が嬉しいので、プライベートで転職先が決まったりして、しばらくバタバタしそうですが、なんとか暇を見つけて調べていく予定です。
EDIT  |  01:40 |  尾形(幕末恋華)  | CM(2) | Top↑

2017.09.21 (Thu)

鳥媒花とポリネーター 

以前我孫子市鳥の博物館で花鳥画のスケッチをした際に、何も考えずに鵯と椿を描いたのですが、これが鳥媒花とポリネーター(花粉媒介者)という自然界に於いて非常に縁の深い組み合わせだったことを、先日の水墨画のの授業で初めて知りました。
よく花鳥画で見られる「梅とメジロ」の組み合わせもそうらしいです。
椿など鳥媒花に赤い花が多いのも、鳥にとって最も目立つ色が赤だからで、鳥に送粉を頼る種として進化した結果とのこと。
一方で虫には赤が見えにくいので、虫媒花には赤以外の花が多いらしいです。
画を描いていると、しばしば生き物同士の繋がりを垣間見る機会があり、そのたびに自然の奥深さに驚かされます。

椿と鵯
EDIT  |  01:03 |  水墨画  | CM(0) | Top↑

2017.09.20 (Wed)

梟さん、またいつでも夢に出てきてください 

今朝、足を怪我した梟の若鳥を保護して、いずれ野性に帰そうと決意する、ハートフルな夢をみたんですけど、私が「可愛いなあ、可愛いなあ(フサァ)」と一生懸命撫で回していたのは、もしかして、毛布…?
そりゃあ、触り心地良いよね。毛布だからね!
そして私は夢の中で喋っているときは大体現実でも喋っているので、この時の光景は「お察し下さい」としか言えない。
誰もいなくてよかったな!
残念ながら、梟に夢中で呼吸を忘れていたようで、自分の「フゴァッ!!」という声で覚醒してしまい(最初、梟が奇声を発したのかと思って焦った)、感動的な別れのシーンは見られませんでした。
でも別れのシーンを見ようと無理に粘っていたら、十中八九、私がこの世とお別れしていたと思うので、仕方ないですね‥。

梟さん、またいつでも夢に出てきてください。

就寝前にAV(アニマルビデオ)ばかり観てるせいで、こういうお触り系の欲望丸だしな夢を見てしまったのでしょうけど、興奮しすぎて呼吸を忘れるのはさすがにヤバいので、小動物カフェとかでお金を貢いで定期的にモフらないといけない気がします…。
EDIT  |  01:47 |  タダノ日記  | CM(0) | Top↑

2017.09.18 (Mon)

岳間事件について 

先日石橋村長関係の記事で岳間事件について書けなかったので、補足記事です。
鹿北町誌も九州日日新聞もデジタル化が進んでおらず、現在完全に封印された事件状態ですので、こんな参考文献の纏め程度でも誰かの役に立つ日が来るかもしれないと思い、文字に起こす次第です。

■岳間事件(岳間騒動)
明治25年5月~11月に起きた政争事件。国権党が巡査と示し合わせて改進党支持、あるいはどちらともつかない有権者の家に乗り込んで、次々に50余名を人力車に乗せて荒平の土蔵に連れ込み、20日余りも閉じ込めた。これを途中で取り返そうとしたり、土蔵に押し掛けるなどの大乱斗が毎日のように繰り返され、鎮圧に憲兵まで出動した。ゴロツキが横行し、森川某の家がうち壊されたり、鉄砲をぶち放つ者が出たりなど、治安が悪化。市木橋上で刀を持った江崎某と、鉄棒を振りかざした「おおごもり」の一騎打ち事件も起きた。
当時岳間は改進党(懐派)有利だったため、国権党(温派)の焦りが事件に繋がったと思われている。
温派は明治25年5月25日橋本宅を、懐派はその十数日前より黒田某宅を本部にした。懐派は野中・石橋を大将とし、暴行隊を組織。その他更に応援隊として筑後懐派6~9名を呼び、ごろつきも雇って、その人数は総勢300名になった。
中には短銃で武装する者もいて、温派に奇襲をかけるなどした(温派の牧野某が膝に銃弾を受ける事件が起きた)。

一般的には上記のような内容です。
当時のインタビューでも懐派・温派で証言が食い違っていたらしいので、どっちが最初に仕掛けたとかは曖昧。
それにしても「暴行隊」って‥。石橋元村長も短銃ぶっ放したりしたんだろうか‥。小倉戦争の帰還兵、血の気多すぎ…。

参考:
・『鹿北町誌』
・九州日日新聞(明治25年5月~11月)

とりあえず、今回郷土史を洗い直した一連の成果はこのくらいです。疲れたので、しばらくはマッタリしようと思います。
EDIT  |  02:18 |  尾形(幕末恋華)  | CM(0) | Top↑

2017.09.17 (Sun)

前記事の補足:来民が旱魃に悩まされていた歴史について 

前回、来民が旱魃に悩まされていた歴史に触れましたが、それを改善した人について文章の構成上、挟む事が出来ませんでした。此方に記載し、補足とさせていただきます。

■遠山弥二兵衛
八代郡竜峰村の人。嘉永六年(1853)に山鹿郡中村手永御惣庄屋に赴任し、七年間在勤。着任早々三玉・大道・来民方面の田地約500町が旱魃常習地であることを知り、その解消のため、湯の口の溜池の築造を計画し、安政二年(1855)着工、同四年に完工させている。この溜池の築造によって500町の水田が美田になっただけでなく、新たに30町の新田が出来た。
安政三年、弥二兵衛は各庄屋に命じて稼穡(稼は播種、穡は収穫の意)のことを調べさた。そうして各村から提出された調書を会所で一冊に綴じ込んだものが『稼穡調書』(鹿本町内田寧麿蔵)で、弥二兵衛はこれを施政の参考にした。
(参考: 『鹿北町誌』)

遠山さんの溜池築造は地元で話題になっていたことでしょう。
特に俊太郎は母の実家が庄屋にジョブチェンジしてますし、父上が上野家の知行地(上御宇田)の管理をしていますので、来民の旱魃は気になっていたでしょうね。
遠山さんに関しては山鹿市教育委員会から『近代の山鹿を築いた人たち005』も出ています。
こちらの資料は大変読みやすいのでオススメです。

岳間事件(岳間騒動)もネットで出てきませんでしたので、後ほど文字に起こす予定です。
当時の九州日日新聞に記載されるレベルの事件なのですが、文章のデジタル化が追いついていないせいですかね‥。
EDIT  |  12:45 |  尾形(幕末恋華)  | CM(0) | Top↑

2017.09.16 (Sat)

尾形俊太郎の新しい史料を発見(『鹿北町誌』より) 

さて、前回に引き続き『鹿北町誌』について書くわけですが、まず本誌を寄贈してくださった、鹿北町長・西牟田鹿蔵氏に感謝です。
お陰さまでなんと尾形俊太郎(三嶋俊太郎)に関する新しい史料が見つかりました。今回はそれについて記します。

吉川氏によると「(岳間の)村人に懇願され、4枚の襖に漢詩を書いたものが昔あったが、現在所在不明」(『維新の道』より)との事だったので、結構断り切れずに揮毫してるのだろうなとは思っていたのですが、火事もあったし、もう本人の残した物は出てこないだろうなと思っていました。
しかし、ありました!!
どうせ関係ないだろうと思いつつ、斜め読みしていた土木の項目にそれはありました。以下、腱鞘炎になる勢いで書き写した本文。

P.73 第四節 土木事業  第一項 用水路
鹿北町における土木工事の多くは池溝で、江戸初期から行われ、明治初頭に拡張工事がなされたものが多い。
(一)原の用水溝 (大字多久字原)
金原の滝の下から原まで約4km、今日約25haの水田を潤す。昔用水溝のなかった原部落は高台のため用水乏しく、畑が大部分で、谷間、谷間に狭い湿田、いわゆる深田があるばかりだった。「娘やるなら深田のある家に」といわれるほどで、水田への憧れと、かねて用水不足に悩んだ事がこの大事業を起こす因となったのであろう。
明治36年に至り、この大事業を記今する「溝渠疏鑿記念碑」が原の高台を見下ろすところに建てられた。六十数年を経た今日、風化甚だしく進み、一部分は読めない文字もある。なお溝が完成してから75年後の建碑であるためか、言い伝えと幾分異なる。
(この後、伝説について記載がありましたが割愛)

要約すると、原の用水溝が完成してから75年経った明治36年に建碑しましたよという話。そして、その碑全文がこちら。

金原の塘の石碑
此井手文政十年惣庄屋西嶋尉助創業セラレ大木ヲ伐材磧立■■ルニ嘉永四年六月五日山汐洪二崩再磧術■ケルユへ同六年ノ■■小国石工益太郎ヲ雇七十余間井手ヲ永メテ此磧ヲ作成。
   塘方  原口五左衛門
   庄屋  栄右衛門
   頭百姓 栄左衛門
   頭百姓 助左衛門
共議建之

用水路水取口の磧を作った時の碑である。(※問題の記念碑がコレ)
・溝渠疏鑿記念碑(原文ママ)
曩文政年中於椎持村麻生有理半次天資機敏而■■地理之測量偶他日出野膳日徜徉熟導多久川之上流相可便灌■之形勢直与多久村金原安左衛門謀之同人亦精算測術以故交誼■渥■相共叩肝胆凝協議而后互賛助其事先謁大庄官西島尉助具陳其旨趣且求被亶受西猶未以■応也他日調査之而後敢如与両人之所談合一付節欣然掌感善依之向官府抗疏強弁加以悃切更乞臨検官亦詳其事実遂被允可実文政六年■溝渠開鑿之図功剰平準崎■凸凹之坂谷且鑿錐嶮峻律卒之■出届五年干斯則文政十年始■峻功推算推算差構袞々漲堤奔流其巨離一里強笑顔嘗頭戴■皮身纏菅蓑侵邪寒暑雨暴露干外其勤労専在潤身乎既往時榛荒蕪之■藪今変而為六町余良田■則今又墾拓之由倍之豈啻止該村之潤■乎猶可謂使国家■■益者也即距今星霜殆百歳功業不朽山高水長愛国汎仁之■彰嗚呼■功若斯夫■於茲乎当村之耆老其欽慕之情自不克措終表此豊碑矣 椎明治卅六年五月 三島仙巌
発起人惣代 岩本伝三郎 高木三郎
        〃孫七 高木嘉太郎
当時之監司■日吏
        郡代  竹内清三郎
        大庄屋 西島尉助
        小庄屋 長右衛門
        小頭  権七
        頭百姓 助次良 宇平

お分かりいただけただろうか‥(立木ボイス)
「三島仙巌」とありますね。そして俊太郎が岳間村に来た年はいつだったか思い出して下さい。明治36年の2月です。そして居住場所は山中元恭の住居の近く、つまり椎持です。どう考えても、三嶋俊太郎仙顔です。気付いた瞬間、手が震えました。
恐らく、岳間村に来てすぐの頃、「熊本から来た先生だ!」と、村の人に揮毫を求められたのでしょう。元恭あたりが「こいつ、漢詩上手いから!」と近所に触れまわったのかも知れません。その流れで襖の超大作も頼まれたのでしょう‥。そして断りきれなかった、と。
余談ですが、この碑、「原文ママ」と前置きされた上で、文中の「西島」さんのお名前が「西鳥」になっています。俊太郎は2013年に発見された漢詩でも二箇所誤字をしています。なんというか、薄々気付いていましたが、物凄く大らかな人なんでしょうね‥。
当時の人には自分の名前に対して音が合っていれば当てる漢字はどうでも良いという大らかさがありましたが、彼もその典型で、「尾形」を名乗っている頃も、たびたび「小形」、「緒方」を混ぜて使っています。号に関しても、「せんがん」という音があってれば彼的にOKなのでしょう。「仙顔」と「仙巌」を併用していたのだと思います。
「椎(しいもち)」も「椎(しいとき)」になっているけど、音読みが同じ「じ」ならいいのだろうか‥?
それでも「西島」は人の名前だし、音も合ってないし、さすがにマズイんじゃないでしょうか‥?
こういう細かい事に執着しない性格がお母様に叱られる原因だったのでは思いますが、三つ子の魂百まで、この歳まで治っていません。叱られれば叱られるほどメンタルも鍛えられ、更に大らかになったんでしょうね。文学師範の繊細なイメージがどんどん崩壊していく・・(笑)

さて、「当時之監司■日吏」の項目で挙げられている「小庄屋 長右衛門」ですが、この人物こそ以前話題に上がった「西田長右衛門」です。彼は多久地区で庄屋を務める傍ら、私塾を開いていたそうです。弘化四年六月二十四日歿す。享年83歳。『鹿本郡誌』P.254では私塾の開業年が不詳となっていましたが、本書によりおおよそ活動期間が推測できましたので、ここに記載しておきます。
余談ですが、俊太郎の母親の生家は菊池で郡医者を担っていましたが、後に没落して河原手永の正観寺村で庄屋をやる事になります。
また三嶋家のあった来民でも農家がしばしば旱魃で悩まされていた歴史があるので(後に有志によって改善された)、そういったバックグラウンドが揮毫に繋がったのかも知れません。

さて、腱鞘炎になるのではないかという勢いで長々と書いてきましたが、2013年の漢詩以外に生活の痕跡が新発見できてとても嬉しいです。この書籍発行当時でこの碑文はかなり傷んでいるという事なので、それから50年近く経った現代では‥、風雨にさらされてもう読みとれないかもしれません‥。拓本などは無理かもしれませんが、碑文の内容を残してくれた方々に感謝です。
まさに「一つの文化の崩びは誰にも止められないが、それを記録に残することは出来る」(『ふしぎの国のバード』)というやつですね。お陰で未来のストーカーが一人幸せになりました。西牟田町長、ありがとうございます!!
また何か発見したら書きますね~。

田鶴  「あれっ、西島さんのお名前、間違ってませんか?」
俊太郎 「うん。それ、間違ってるの。でもさ、『鳥』の方が可愛くない?」
田鶴  「かわいい‥」
俊太郎 「かわいい‥」
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